
自分は何のために生きているのだろう?
ふとした瞬間に、心の奥底から湧き上がる空虚感に囚われたりすることはありませんか?
「夢を持て」「人生に目標を」と自分たちが若い頃言われてきました。そして今、親となり自分の子どもにも伝えているかもしれません。
でも、もし心の奥底で「人生後半戦となった自分はどうなのさ?」と自問自答した時、胸を張って明確な答えを出せる人はどれだけいるのでしょうか。
どこか他人事のように、遠い世界の出来事のように感じてしまってはいないでしょうか。かつて夢見た未来は、いつの間にか見えなくなってしまった。今はただ、お決まりの毎日を漫然とこなし、まるで魂が抜け殻のように、今日という時間をただ消費している。
あの頃、希望に満ちて輝いていた自分と、今の空虚な自分とのギャップに、言葉を失ってしまう。
近年、「静かな退職(Quiet Quitting)」という最低限の仕事だけをこなし、それ以上のことは意図的にしない働き方が増えているらしい。
これは、単に仕事への意欲がないという問題だけなのだろうか? それとも、私たちは人生そのものに深く関わることを、どこかで諦めてしまっているサインなのだろうか?
ふと気づけば、目標を見失い、まるで指示待ち人間のように、言われたことだけをこなす毎日を送るのか。
これが、もしかしてミッドライフ・クライシス(?)
なぜ、私たちはこなす生き方をしてしまうのか。3つの理由を考えてみました。
【1】操縦されるドローン:「殺生与奪の権」を他人に握られているから
自分で飛んでいるつもりが、実は誰かの遠隔操作で動かされているドローンのような状態。
知らず知らずのうちに、人生の舵を他人に預けてしまっている。
人気アニメ「鬼滅の刃」にも、
生殺与奪の権を他人に握らせるな!
という力強い言葉が登場します。
これは、自分の人生や運命の決定権を他人に委ねるな、という警告です。
しかし、長年社会で生きる中で、私たちはいつの間にか「人生なんて、こんなものだろう」と達観してしまうことがあります。
仕事や家庭での役割が固定化され、周囲の期待や要求に適応することが習慣になってしまう。それは、自分の人生の自主性を徐々に手放していく過程と言えるかもしれません。
「言われたことだけをこなせばいい」「波風立てずに穏やかに過ごせればそれでいい」という態度は、一見自分を守るための合理的な選択のように見えます。
しかし、それは自分の人生のかじ取りを他人に明け渡し、予測可能ながらも無色な人生航路を受け入れることと同じではないでしょうか?
【2】迷子になったパズルのピース:「何者でもない自分」という絶望感があるから
元々どこかにぴったりと収まるはずなのに、どのパズルにも合わず、ただ転がっている。自分の居場所や本当の役割を見失っている状態。
他人の期待に応え、周囲の基準に適合し続けるうちに、私たちは徐々に「自分が一体何を感じ、何を望んでいるのか」という感覚を麻痺させてしまいます。
まるで、何重にも濡れた布のように、本来の自分の輪郭が曖昧になり、何色だったのかさえ思い出せなくなってしまうのです。
自分の内なる声に耳を塞ぎ、外部の基準に適合しようとする。
その結果、私たちは「自分らしさ」というかけがえのない指針を失い、心の奥底には帰属するもののない虚無感だけが広がってしまうのではないでしょうか。
「自分には特別な才能もない」「平均的でいることが一番安全だ」という自己制限は、絶望感の種を育て、積極的に未来を切り開く意欲を徐々に奪っていくのです。
【3】動物園のライオン:狭い世界に閉じ籠っているから
広いサバンナを駆け回る力があるのに、整えられた環境の中で餌をもらい、牙も爪もあるはずなのに、闘うことを忘れてしまったライオン。安全だけど、本来の野生の力は失われている。
長年身を置いた閉ざされた環境の常識は、私たちにとって快適な安全領域となります。しかし、その快適さは同時に、外の世界の変化から自分を遮断する壁となり得ます。
たとえば、会社という壁(見えない柵)、過去の人間関係という境界線、あるいは古い価値観という鎖。
それらに閉じ込められることは、一時的な安心感を与えてくれるかもしれませんが、同時に新しい可能性や成長の機会を意図的に放棄することになります。
外の世界は常に変化し続けています。
過去の知識や経験だけでは対応できなくなる瞬間は必ず訪れます。快適な監獄に甘んじることは、未来における適応能力を徐々に蝕んでいくリスクを孕んでいるのです。
まとめ:「静かな退職」の先に待つのは・・・
今回は、なぜ、私たちはこなす生き方をしてしまうのか、について3つの理由を考えてみました。
【1】操縦されるドローン:「殺生与奪の権」を他人に握られているから
【2】迷子になったパズルのピース:「何者でもない自分」という絶望感があるから
【3】動物園のライオン:狭い世界に閉じ籠っているから
「静かな退職」は、今を穏やかにやり過ごすための手段としては有効かもしれません。しかし、その先に広がる未来は、本当にあなたが望むものなのでしょうか?
自分の願望を押し殺し、リスクを避け、変化を拒み続けた先に待っているのは、積極的な人生参加から得られるはずの充実感や達成感とは無縁の、無色な時間の流れかもしれません。
まるで、止まった時計の針のように、ただ時間だけが過ぎ去っていくのを無感覚に見つめる未来です。
人生は一度きり。他人に「殺生与奪の権」を委ね、閉じ込められた世界で大過なく過ごす人は最期に何を感じるのか…
今一度、心の奥底に問いかけてみてください。「本当にこれが自分が望んでいたことだったのか?」と。
私個人としては、たとえ小さな一歩でも、踏み出す勇気を持つことが、最期振り返った時に「いろいろやらかしちゃったけど、それもいい思い出だったな」と思える気がしています。
それが、当社の理念でもありますし。
あなたはどう思いますか。