
自分は何のために生きているのだろう?
ふとした瞬間、心の奥底から空虚感が湧き上がってくることはありませんか?
何かに囚われてしまったような感覚に。
「夢を持て」「人生に目標を持て」
若い頃、私たちはそう言われてきました。
そして今、親となり、自分の子どもにも同じような言葉をかけているかもしれません。
でも――。
ふと立ち止まり、「人生後半戦となった自分はどうなのか?」と問いかけたとき、胸を張って答えられる人は、どれだけいるのでしょうか。
まるで他人事のように。
遠い世界の出来事のように。
そう感じてしまってはいないでしょうか?
かつて夢見た未来は、いつの間にかぼんやりと遠ざかっていった。
気づけば、同じような毎日をこなし続けている。
魂が抜け落ちたような自分。
今日という時間を、ただ“消費”しているだけ。
あの頃、希望に満ちて輝いていた自分。
その姿と、いま目の前にいる自分とのギャップ。
それに気づいた瞬間、言葉を失ってしまうのです。
最近では「静かな退職(Quiet Quitting)」という働き方が増えているそうです。
必要最低限の仕事だけをして、それ以上のことは意図的にやらないスタイル。
でもこれは、単なる“やる気の欠如”だけではないのかもしれません。
もしかしたら――。
私たちはどこかで、人生に深く関わること自体を諦めてしまったのかもしれません。
目標を見失い、指示を待つだけの人間のように。
言われたことだけをこなして過ぎていく、そんな毎日を送っているのではないでしょうか。
あの頃、希望に満ちて輝いていた自分。
その姿と、いまの空虚な自分とのギャップに、思わず言葉を失ってしまう。
これは単なる「やる気の低下」なのでしょうか?
それとも、私たち自身が――。
人生そのものに深く関わることを、どこかで諦めてしまったサインなのでしょうか?
ふと気づけば、目標を見失っている。
言われたことだけを淡々とこなす日々。
まるで“指示待ち人間”のような毎日を過ごしていないでしょうか。
…これって、もしかすると――
ミッドライフ・クライシスなのかもしれません。
では、なぜ私たちは「こなす生き方」に陥ってしまうのか。
その背景には、少なくとも3つの理由があると私は思います。
【1】操縦されるドローン:「殺生与奪の権」を他人に握られているから
自分で飛んでいるつもりが、実は誰かの遠隔操作で動かされているドローンのような状態。
知らず知らずのうちに、人生の舵を他人に預けてしまっている。
人気アニメ「鬼滅の刃」にも、
生殺与奪の権を他人に握らせるな!
という力強い言葉が登場します。
これは、自分の人生や運命の決定権を他人に委ねるな、という警告です。
しかし、長年社会で生きていく中で。
私たちは、いつの間にかこう思ってしまうことがあります。
「人生なんて、こんなものだろう」と。
仕事や家庭での役割が固定化され、周囲の期待や要求に適応することが習慣になってしまう。それは、自分の人生の自主性を徐々に手放していく過程と言えるかもしれません。
「言われたことだけをこなせばいい」
「波風立てず、穏やかに過ごせればそれでいい」
こうした態度は、一見すると。
自分を守るための“合理的な選択”に見えることもあります。
しかし、それはどうでしょうか。
それは、自分の人生のかじ取りを、他人に明け渡すことと同じではないでしょうか?
予測可能で、無色な人生航路を。
ただ受け入れることに、なってはいないでしょうか。
【2】迷子になったパズルのピース:「何者でもない自分」という絶望感があるから
本来なら、どこかにぴったりとはまるはずだった。
なのに、自分というピースは、どのパズルにも合わず、転がったまま。
自分の居場所や、本来の役割を見失っている状態です。
他人の期待に応えようとするあまり。
私たちは、いつの間にか周囲の基準にばかり適応するようになります。
その結果、だんだんと「自分が何を感じ、何を望んでいるのか」という感覚が麻痺していきます。
まるで、何重にも覆われた布のように。
本来の自分の輪郭はぼやけ、「何を大切にしていたのか」すら思い出せなくなってしまうのです。
気づけば、内なる声よりも「外の基準」に耳を澄まし、それに合わせて行動しようとする。
その積み重ねが、やがて私たちから「自分らしさ」という名の指針を奪っていきます。
心の奥では、帰属すべき場所を求めているのに。
表面では、ただ無感動に日々をこなすようになってしまう。
「自分には特別な才能もない」
「平均的に生きているのが一番安全だ」
そんな思い込みや自己制限が、絶望感の種となって、
未来を切り開く勇気や意欲を、少しずつ奪っていくのです。
【3】動物園のライオン:狭い世界に閉じ籠っているから
広いサバンナを駆け回る力が、本当はあるはず。
それなのに、整えられた環境で餌をもらい、牙も爪もあるのに――。
闘うことすら忘れてしまったライオン。
安全ではあるけれど、本来の“野生”は失われている。
長年身を置いた「居心地のよい環境」。
その快適さは、やがて“安全領域”として私たちに根づきます。
けれど同時に、その快適さが「壁」にもなっていくのです。
外の世界の変化から、自分を遠ざける理由になるからです。
たとえば、会社という“見えない壁”。
過去の人間関係による“境界線”。
あるいは、古い価値観という“鎖”。
そうした枠の中に閉じこもることは、確かに安心感を与えてくれるかもしれません。
でもその一方で、
新しい可能性や成長の機会を、自ら放棄していることにもなります。
外の世界は、常に変わり続けています。
過去の知識や経験だけでは、もう通用しない時代がやってくるのです。
快適な監獄に甘んじることは、
未来における“適応能力”を少しずつ鈍らせていきます。
そして最後には、リスクにすら気づかない自分になってしまうかもしれないのです。
まとめ:「静かな退職」の先に待つのは・・・
今回は、なぜ私たちが「こなす生き方」を選んでしまうのか。
その理由について、次の3つを考えてみました。
【1】操縦されるドローン:
「操舵と判断の権利」を他人に預けているから
【2】迷子になったパズルのピース:
「何者でもない自分」という絶望感があるから
【3】動物園のライオン:
狭い世界に閉じ籠っているから
「静かな退職」は、今を穏やかにやり過ごすための手段としては、たしかに有効かもしれません。
でも――
その先にある未来は、本当にあなたが望むものなのでしょうか?
自分の意思を手放し、
リスクを避け、変化を拒み続けた先に待っているのは――
期待感も、人生の輪郭も失われたままの、空虚で無風な時間かもしれません。
まるで、止まった時計の針のように。
ただ同じ場所で回り続けるだけの、惰性で構成された時間かもしれないのです。
人生は一度きり。
他人に「操縦する権利」を委ねてしまえば、
閉じ込められた檻のなかで過ごすような時間に、慣れて麻痺してしまうかもしれません。
どうか、一度。
心の奥に問いかけてみてください。
「本当にこれが、自分が生きたいと思っていたことだったのか?」と。
私は思うのです。
たとえ今は迷っても、踏み出す勇気を持つこと。
視野の狭さと“過去の延長線”から抜け出すこと。
そうすれば、きっと未来には。
「いろいろあったけど、悪くない旅だったな」と思えるような時間が、待っているはずです。
私個人としては、たとえ小さな一歩でも、踏み出す勇気を持つことが、
最期に振り返ったときにこう思える気がしています。
「いろいろやらかしちゃったけど、それもいい思い出だったな」と。
それが、当社の理念でもありますし。
あなたはどう思いますか。